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禅と魔境

なにやら、怪しいタイトルですが(笑)
今、また眠れなくて(またかい!)、「禅の本」というのを読んでました。
禅。はっきり言って、難解です(笑)

ただ、これを読んでいて、「あー、そうそう」と思ったことがあったんですよね。

気功を習っていたとき、私は常に、自分で感じたこと、体験したことに対して「疑問」を持っていました。
あまり入り込み過ぎるのは危険だと。
「うわー、自分すげー!」になるのは危ない、と。

その気功教室では、必ず、最後に「座禅」をやってたんですよ。
その中で言われたこと。
「まず、自分を感じる。そして、そこから自分のいる場所、自分が今いる町、さらに自分がいる国、自分がいる地球、宇宙・・・・とイメージすること。それから、少しずつ、戻ってくること。」と。
それをやってたわけですが、40分ほどかけて。
それが終わると、必ず一人や二人は「お花畑が見えました!」とか言う人がいたんですね。
しかし、先生は受け流してました。
私は、あまりそういうのを感じませんでしたわ。ただ、すっきりしたという感じだけ。

で、この本を読んでいて出てきたのは「魔境」という言葉。
禅とは魔境に入ることである、と。
脳波がある段階に入ると、魔境という状態になる。
幻覚・妄想を見てしまうわけです。これには、釈迦ですら悩まされたと。

また、禅の世界にはこういう言葉もあります。
「野狐禅(やこぜん)」。
これの意味は。
「野狐(やこ)とは、野ギツネのこと。禅の工夫もせず、悟りも得ていない者が、いかにも悟ったふりをして指導者の顔をする。こうした似而(えせ)非禅をいう。【無門関(むもんかん】の第二則にある百丈野狐(ひゃくじょうやこ)の公案にちなんだ言い方。観念的なものをつかんで、悟ったと勘違いした禅者の禅も同じ」

悟りとか、スピリチュアルというものは、そう簡単には得られないものということです。
そんなものは、相当な修行を積んだ者にしか得られないということ。
歴代のそうそうたる高僧たちが言ってるんですから。(笑)

「自己をひたすら見つめる」

これが、禅のあり方ということ。


なお、カトリックの僧侶たちが、盛んに禅宗の寺にやってきてその生活を実践してみているそうです。これまでに何度も。
宗教を超えて、同じように、皆、感じているということでしょうか。



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というわけで、「禅」の話が出たところで、和菓子なぞいかがでしょうか?(笑)

日本のお菓子大集合
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